『やる気』について

世の中、何故だか『やる気』のせいにする事が多い気がします。

もしかしたら、『やる気』を主役にし、語らせたなら、『冗談じゃ無い、こっちのせいにするなよ!』

と、言われてしまうかもしれません。

 

 

『どうしたらやる気がでるのか?』

→ 『何してもダメ、やる気は出ないだろうね!』

 

『やる気さえでれば、、、』

→『そもそもアンタ、やる気は一生でなそうだよ』

 

『やる気はあるのに!』

→ 『いやいや、やる気があるなら、そもそも違う人生になってるだろ!』

 

そのような感じで、僕も例外なく、日常生活において全くやる気が出ないタイプです。

 

時にそれは、仕事のせい、雨のせい、世の中のせい、政治のせい、友達のせい、家族のせい、、

 

もしかしたら、僕だけでなく、みなさんも、やる気の出ない理由を何かと引き換えにトレードオフしていませんか?

 

だけど、例外的に『やる気』を感じる時があります。

というか、そんな時こそ、いちいち『やる気』などと口走しらないものです。

 

例えば、身体に関する本を読んでいる時、やる気なんて全く感じないんです。

骨を眺めている時も同様です。

 

いつからこうなのか?を、辿っていくと、実は学生時代、試験前の勉強で教科書を開く時、実は腰が重く、それこそ『やる気』が起きませんでした。

それは、普段、好きで眺める本が別の本になり、いわゆる試験対策の勉強法という奴に変わってしまうと、興味が別の所に行ってしまうのでしょう。

 

しかし、『やる気』はないけど仕方なく始めた勉強も、自分なりのまとめ方や、興味の置き方に落とし所をつけていくと、いつの間にか波に乗り始めたりと、そんな記憶があります。

 

つまり、僕でいうと、

『やる気』は出るものでなく、湧いてくるものなのです。

 

それは、広告代理店時代、やる気ない仕事の徹夜作業でも、途中からそれが湧いて来る時は、テンションもあがり、仕事のクオリティも高くなっていたようです。

 

 

アナ骨、アナヨガに置き換えてみます

何度も言われたこんな言葉。

 

『嫌だけど来ました!』

 

それ、僕に言ってどうするの?

と、思うのですが、恐らく本音なのでしょう。

 

しかし、お世話かもしれませんが、その後に、『だけど来て良かったです』

という言葉をつけてくれるのです。

 

もしかしたら、その方も、イヤイヤながら始めていたけど、動きだしながら、『やる気』が湧いてきたのかもしれません。

 

つまり、

『やる気』なんて、最初からないものですし、

『やる気』なんて出すものでないのです。

 

とりあえずのアクションを起こし、

第一歩を踏み出す事で、踏み出した一方に対し修正やら訂正が必要になります。

 

仕事であれば、このペースで間に合うのか?このやり方でよいのか?などです。踏み出したからこそ見えた景色は新鮮であり、ワクワクが起こります。そこにリカバリーを重ねる事も苦ではありません。

 

やっぱり、

やる気なんて満ちていなくて良いのだと、

改めて、思うのでした。